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   『騎士と姫』


「あなただったのですね」
天上でかき鳴らされた琴の調べを思わせる、姫の声が頭上から降り注いだ。
それはあまりに妙なる調べで、一瞬その音が意味するものを騎士の少年は忘れたほどだった。
天上の反対を睨み付ける少年に見える姫の麗姿は、豊かに大理石の床を波打つ黒髪だけだ。
姫そのもののような汚れのないこの純白の部屋では、その黒髪だけが姫の孤独や悲しみを浮き上がらせた。
「あなたが私の待ち人だったのですね」
重ねて問われて、騎士は無意識に逸れる思考に止めを刺した。
現実に立ち戻った騎士を待つのは、犯さねばならない狂気の罪だけだ。
跪いた体が先刻から微動だにしないのは、逃げ出したい感情と、罪を望む理性とがせめぎあい、膠着しているからだ。
床に磔にされた騎士のもとへと、こつり、こつり、と鳥篭の中の聖女がこちらへ近づく。
それは死出の旅路、断頭台への道行きだ、と大声で喚きちらしたくなって、しかし実際に出来たのは、ぴくりと身じろぎすることだけだ。
騎士には、こんなに近くにいるか細い一人の少女の歩みを止めてやることもできず、遠く尊い巫女姫ゆえに、役目を投げ出し見逃してやることさえできなかった。
あまりに中途半端で、無力な男だ、と少年は吐き気を必死でこらえた。
小鳥のような小さな足音は、そんな騎士の傍で止み、きちんと揃えられた真っ白な靴をはいた両足の小ささが、
ざくりと音を立てて騎士の心を刺した。
だが、どんなに心が血を流し、冷たい汗が心を凍えさせても、それでも傷つく資格はない、と少年は思った。
被害者ぶろうだなんて、そんなことだけはしてはいけない。
ほんの一欠けらさえ傷つき、涙を流し、苦悩してはいけないのだ。
なぜなら、それでも騎士には、その手に握り締めたものを離すことだけはできないのだから。

たったひとふりの、人殺しの武器を、手放すことだけはできないのだから。

姫は、生まれついたときから神の子として育てられ、16年の生の後、神の御許へと還されることが定められた少女だった。
そして、その巫女姫を屠り、天へと送る役目は、王国騎士団の騎士にして、王族にさえ連なる名家である、少年の手へと託された。
そのぎらりと飢える剣は騎士の少年の魂。
醜く、血に汚れ、誰かを傷つけることしかできない、愚か者の手、そのものだ。
どれほど憎み、厭んでも、切り離しうち捨てることはできない。
できないのだ。
「よいのです。私が神に捧げられることは、ずっと昔から決まっていたこと」
姫はそういい、一度も赤く染まったことのない、汚れない手で、騎士の手を、騎士の魂を、そっと包み込む。
「あなたが私付きになってくれて、私の部屋に来ては、笑いかけてくれたこと、本当に嬉しかった」
それが一体なんだというのか。
森になった林檎を与え、野に咲く花を摘むことが、命の代価となるというのか。
浅慮のゆえに、姫へと笑い、笑いながら命を奪うのか。
ただ、己のために。世界のために。
「最期に会うのが、あなたで嬉しい。」
そう姫は言う。
心優しき姫は、天使のような無垢な心で、少年を許すように、そう言ってくれる。
だが、少年には分かった。
姫の言葉の中の、静かな覚悟と隠された絶望が。
命乞いさえすることができないとわかっているから、彼女に残されたのは優しさだけなのだ。
全てのものに優しい姫が、自分にだけは優しくできないのだ。
それでも岸の少年は、そう仕向けた人間達の、その中の一人でしかいられない。
その事実は何よりも重く騎士の少年を押しつぶした。
ぺたりと潰された薄っぺらな心は、空虚に流れ出しいつのまにか瞳から零れた。
悲しみでもなく哀れみでもない、ただの感情の残り滓が、どこまでも落ちて行く。
姫の小さな手に促されて、騎士の剣は獲物に触れる。
どんなに隠そうとしても隠しきれない細い手の震えが、騎士の心を揺さぶった。
騎士の手が一瞬何も持たない少年の手に戻り、咄嗟に騎士は手を引こうとした。
が、脳裏をあまりに多くのものがよぎった。
病がちの妹。要職につく父。信頼をよせてくれる先輩騎士。祈りを捧げる旅人の親子。
やっと掴んだ騎士の証の剣。曲がりくねった血に塗れた道。
全てが、少年の手の中にあり、あまりに持ちすぎて、姫の命を掬い取ることだけは、できない。
「あなたに会えて、私は幸せだったのです」
哀しく優しい言葉が、騎士の覚悟を決めさせた。
逃げられない罪なら、それを姫におわせることだけは出来ない。
姫は騎士にとって宝だった。
美しく神聖な神なびた姫。
会うたび胸が高鳴り、心が震えた。
いつも姫の顔が浮かび、無邪気な程真っ直ぐに姫に向かった。
姫のことを、慕って、守りたくて、そして・・・・・、
愛しているからこそ。
この罪が永久に自分を苦しめ、壊すものであると知っていても、姫を穢すことだけはできない。
騎士は、一度だけ全てから目をそらして、小さく息をすう。
次に目を開いた時には、そこにはもう、自分にはなんでもできると信じていた少年はいない。
騎士は、もはや少年たりえない騎士は、ぐっと剣を押し進める。
真っ白な首から噴き出した赤い血が、姫の白さを侵して行く。
自らも、無垢な姫をも血に染めながら、何を掴めるのか、もはや騎士には分からなかった。
そこにあるのは世界の終わりだけではないのか。
崩おれる姫の体を受け止めて、思わず姫の名を叫びながら、騎士はそれでも右手に掴んだ剣を手放さなかった。
これは騎士の魂。騎士の罪。騎士の誇り。騎士の愚かさ。
騎士の始まり。そして、騎士の終わりなのだ。
例えどれほど慟哭し、空に吠えても。
姫の瞳から光が失われていくのを目の当たりにしても。
かちかちと無情に感情の針が狂って行っても。
騎士は剣を握ったその手でしか、姫を抱きしめてやることができない。
こぽりと苦しそうに血を吐きながら、姫は一言を零す。

『あ・・りが、と・・う・・・・』        ★


そうして哀しき姫の血が世界を赤く覆い、

一人の少年の世界が終わった――――


 
    

      
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2007,9,2
 
『姫と騎士』と対になるお話です。
 時々ゲームなんかにある、たった一人のために世界を捨てる、という設定に反発してみました。
 世界のしがらみから、どうしても自由になれない少年の優しさと愚かさの話です。